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今夜の番組チェック

Marika in Arabia
1997年。ヨルダンで公演はしていないのですが、友達も多いので、チュニジア公演の帰りとか、イラクやシリア公演の時にアンマンを拠点にしていましたため、何度か訪れました。
その日はヨルダン北部イルビットのハルドゥーン一家のお隣の家に泊めていただくことになり、そこのおうちの子猫と遊べて嬉しかったです。
アラブの猫でも特別に彫りが深いということもなく、猫は世界共通のかわいい生き物なのだと認識を新たにしました。写真の日付が間違っていますが、気にしないで下さい。1989年はヨーロッパで公演していましたので、アラブへは行っていません。イスラム圏で公演をしはじめたのは、1995年のイラク北部の古代ローマ都市ハトラ国際民族芸能祭からです。ごめんなさい、もしかしたら、1994年かもしれません。
オサマのおとうさんアル・ラウイ博士は、サダム・フセイン内閣のアラブ連盟の大臣でした。
でも、湾岸戦争がはじまってから、一家はチュニジアやヨルダンに住んでいて、4人の子供たちも、オサマはロンドン、二人の妹はアンマン大学、弟はイルビット大学に通っていました。
このおとうさんが私をイラク政府のいろいろな大臣のところへ連れて行きました。
メルセデスを5台持っていました。
この日は公演を終え、日本人メンバーをトルコ経由で帰国させ、私だけチュニスに残り、在チュニジア日本大使館の担当の職員の方やアル・ラウイ博士一家を中華料理にご招待しているところです。


情報省のフランス語担当のクルド人職員が、1994年のハトラ公演の時日本チームを担当し、1995年にバクダッドを訪問した時、お昼ごはんに呼んで下さいました。クルド人は、椅子やテーブルではなく、床に座って、食事をします。
きっちり膝を折って座ったり、足を崩したり、あぐらをかいたり、いろいろな格好でお食事をしていました。
おにいさんは、イラン・イラク戦争終結後も数年間イラン軍の捕虜として収容されていて、やっと解放されて
帰ってきたため、精神に生涯をきたしていて気難しくなっているとのことでした。
カマールさんは、湾岸戦争でアメリカ軍の砲弾を浴び、足を少しびっこを引いていましたのが、
見ていてつらかったです。自家用車やバイクがないので、3本のバスを毎日乗り継いで情報省に通うそうです。1996年の日本担当通訳はロバのような人で、ほとんど言葉が通じませんでした(通じないふりをしていただけかもしれません)。

オサマの家に出入りするいろいろないとこやはとこなどを紹介されましたが、アラブ人は知らない人は
みんな顔が同じなので、
識別が難しく、誰がだれだかわからなくなってしまいました。むこうは私をマリカと呼ぶのに、私はぜんぜん呼べなくて、この感じは、スリランカでも同じでした。これらの国ではほとんどの人がみんな同じ顔です。それは、茶髪やロング毛やピアス、剃り跡もすがすがしい髭なし顔がまったくいなく、すべて、短髪、黒髪、髭つきだからです。

古代ナバテア人の遺跡ペトラでラクダに乗るともう、砂漠の女王の気分です。
衣裳一式持って行けばよかった。
遺跡、温泉、死海、アラブ菓子、歴史、王政、親日感情、洗練、治安の良さ、安い物価、ヨルダンが大好きになりました。
日本人にとってこれ以上の観光旅行先はあるでしょうか。
この国の人口の70%がパレスチナ人と聞いています。